web complexはリニューアルに伴い、書評欄を下記アドレスに変更致しました。
大変お手数ですが、ブックマークの切り替えをお願い致します。
今後ともweb complexを何卒よろしくお願い致します。
http://genbaken.com/press_review/press_review.html
2009年08月04日
サイト移動のお知らせ
posted by complex編集部 at 22:41| 書評
2009年04月02日
広辞苑によると〈美術〉は・・・(全3回)
第2回 美術辞典としての『広辞苑』(1)
美術辞典としての『広辞苑』
今回からは、『広辞苑』第六版が美術辞典としてどのような規模と性格を持っているのかを探っていきたい。前回にも述べたが『広辞苑』は、単なる国語辞典ではなく、百科辞典としての機能も備えた中辞典である。岩波書店の広告によると、第六版では1万項目を新たに収録し、総項目数は24万語にも及ぶ。美術分野の用語だけでも相当な情報量を持っているおかげで、『広辞苑』第六版があれば、美術のことでもちょっとした調べ物はすぐにできる。実際に筆者は、変換ソフトATOKに対応した「広辞苑第六版」をインストールし、画家の生没年や団体の成立年などを瞬時に調べられるようにした。これは非常に便利なので美術史関係の読者諸賢にはお勧めしたい。
さて、『広辞苑』第六版巻末の協力者一覧を見ると、美術史関係の人名には、井出誠之輔氏、北澤憲昭氏、名児耶明氏、山崎剛氏、山梨俊夫氏の五名が並んでいる。このたび、協力者の一人である北澤憲昭氏に、この新版にあたっての意図を聞くことができた。北澤氏によると、第五版までの〈美術〉に関する項目数はおよそ2千2百項目で、第六版ではその一割にあたる約220項目を増やすことが当初の方針であった。北澤氏ら『広辞苑』の協力者に求められた作業は、第五版の内容の点検と校閲、第六版で新たに加える項目の「候補の選定」であったという。ただ、第六版で最終的にどの程度〈美術〉の言葉が増えたのか、正確な数字は確認できない。それにしても、欲を言えばきりがないのは承知の上であるが、今日急速に細分化しつつ拡がっていく人文科学や自然科学の動向を全て捉えるにあたって、『広辞苑』第六版が全体で1万項目の新しい言葉“しか”増やさなかったというのは、むしろ少な過ぎたのではなかろうか。
さらに北澤氏によれば、美術分野でも多くの項目候補の中から絞り込む過程で、仕方なく落としたものも相当あった。特に、「国語辞典であることが基軸の辞書であることから、専門性の度合いは抑えざるをえなかった」という。そのため、編纂の方針として、「一般的、かつ他分野とのかかわりで文献に出現頻度の高いものから順に選んでゆく」ことが決まっていた。
確かに、『広辞苑』では、一つ一つの項目の説明はだいたい60字から160字前後に限られており、何かについて詳しい情報を知るにはあまりにも簡潔過ぎる(例えば徳川家康のことでさえたった256字で記されている)。専門の美術辞典などとは比較にならないものだ。しかし、にもかかわらず、『広辞苑』第六版には専門の美術史の本にもなかなか載っていないような項目がたまに載っていたりするのは、大きな矛盾ではないだろうか。あるいはそのような矛盾を「こだわり」と呼び換えるべきかもしれない。
例えば、人名で新しく加わった呉師虔(ご・しけん)。これは美術史を専門にする人でも知らない人が多いと思われるが、もちろん『大辞林』第三版にも載っていない。『広辞苑』第六版には「琉球王朝時代の画人。本名、山口宗季(そうき)。王命により中国に渡って画技を学ぶ。1710年、絵師主取(ぬしとり)となり、王の肖像画制作に従事。(1672〜1743)」として紹介されている。第五版まで沖縄の画家が採録されていなかったところ、新しく呉師虔を入れたということは、単に一つの慧眼と評すだけでは済まない。呉師虔のような画家が広辞苑に新たに加えられたということは、日本・東洋美術史の領域が大きく拡張していく中で、私たちが既に美術史の授業などで習った知のバランスを新しく取り直す必然性に直面していることを表明しているだろう。
これは『広辞苑』第六版の矛盾、いや「こだわり」のほんの一例である。呉師虔は近世の絵師だが、実際のところ、新しく加わった200件ほどの美術項目の多くは、日本近現代美術史の人名・用語だと見て良い。北澤氏は「『広辞苑』は、各時代を反映して編集が行われてきましたので、われわれも、この時代をできるだけ反映させたいと考え、現代美術系の増補を心掛けてきました」と述べた。「この時代」とは、『広辞苑』第五版が1998年に出てから、第六版が2008年に出るまでの、約10年の時間である。逆に言えば、『広辞苑』に新しく加わった200件余りの項目から、この10年間の〈美術〉とはいかなる様相を示していたかが見えてくるのかもしれない。次に、『広辞苑』第六版の美術用語で何処が新しくなったか詳しく見ていこう。
『広辞苑』第六版に加わった人名
原則として『広辞苑』に収録されるのは物故者のみなので、第六版に新しく加わった人名は、だいたい昭和の中頃までに活躍した人物である。その中でも私なりに大別すれば、重なるところも多いが次の三つに分類できようか。
(1)既に一般的に有名であったが、第五版までなぜか収録から漏れていた人物(1)既に有名であったが、第五版までなぜか収録から漏れていた人物は、全く私の主観的な分類だが、次の人物が挙げられる(五十音順、以下同じ)。
(2)美術分野以外での一般的な知名度は大きくないものの、新しく収録された人物
(3)1998年から2008年までの間に没した有名な人物
池田満寿夫、岡田謙三、小野忠重、駒井哲郎、小松均、杉山寧、高階隆兼、鶴岡政男、勅使河原蒼風、中井正一、野田英夫、林忠正、松岡寿、柳沢淇園
まず、中井正一は、美学の分野にとどまらない大きな仕事をした人物であり、『広辞苑』第五版まで収録されていなかったことは驚きである。林忠正は、近年ますます盛んになりつつあるジャポニスム研究においてその名を欠かすことの出来ない人物である。そして、勅使河原蒼風は、一時期は岡本太郎に並ぶほど一般ジャーナリズムでの有名芸術家だったのではないだろうか。池田満寿夫もしかりである(ただ池田は1997年に没したため、第五版のときは作業中で載らなかったのかもしれない)。上記の他の美術家たちも、美術のみならず、時代の象徴としてしばしば取り上げられることがある。上記の人物を入れたことは、第五版までの欠陥をある程度正したと言えるだろう。
しかし、『広辞苑』第六版が『日本近現代美術史事典』(東京書籍、2007年)のような近現代専門の美術辞典に掲載された人名を全て網羅したわけではない。さらに、特に近代建築史関係の人名があまりに少ないなど、第六版でも不足や偏りがあるのも事実だ。もっとも、改めて言うまでもないが、辞典とは「大きさ」対「充実度」という相反する要素から成り、全てにおいて完璧な辞典など存在しえない。こうして何かの方針に沿って改訂し続けることによってのみ、辞典の精度は上がっていくのだろう。辞典とは、改訂されることを通じて成長する、長い寿命を持った生き物として捉えるべきなのだ。逆に言えば、改訂を前提としない辞典は寿命にトドメを刺されたようなものである。
(2)美術分野以外での一般的な知名度は大きくないものの、新しく収録された人物は、先に挙げた呉師虔のように、おそらく美術史を専門とする校閲者たちの何らかの「こだわり」が反映されているだろう。
岩村透、瑛九、奥原晴湖、オノサトトシノブ、桂ゆき、菊池一雄、呉師虔、合田清、佐藤朝山、新海竹太郎、清水登之、田村宗立、鳥山石燕、長沼守敬、百武兼行、安田雷州、安田龍門、柳原義達、山本豊市、山口長男、結城素明、横山松三郎
このあたりの人名は、まさにこの10年間の美術史研究の動向を反映していると考えられる。明治の美術史家・岩村透は、最近研究書が出版されつつも東京都美術館での「アーツ・アンド・クラフツ展」ではすっかり無視されたが、既に『広辞苑』に収録されるほどには西洋美術導入の仕事が評価されていることが分かる。清水登之は1996年と2007年に大きな回顧展が行われ、美術史上での評価も揺るぎないものに変わったであろう。また、佐藤朝山、新海竹太郎、安田龍門、柳原義達、山本豊市、といった彫刻家が新しく加えられたのは、絵画偏重であった〈美術〉への反省から、近代彫刻史への関心の高まっていることが現れているのであろうか。
こうした言わば「新しいバランス」への志向は、第六版の至る所に見て取れよう。ときに振り子のような勢いすら感じられる。田村宗立、百武兼行、安田雷州といった明治の絵師・画家が加わる一方で、瑛九、オノサトトシノブ、山口長男といった昭和の前衛画家が加わっている。そして、女性の前衛美術家として、桂ゆきが加えられたことは、ここ10年のジェンダー意識の高まりを反映した可能性が高い(にもかかわらず、山下りんが収録されていないことは玉瑕であるが)。最後に、美術の分野ではないが、人形師の松本喜三郎が収録されたことは、2004年の回顧展の反映であろうし、工芸と彫刻、近世と近代のあわいへの関心の高まり故だろうか。
(3)1998年から2008年までの間に没した有名な人物は、上記Aと重なる部分も多いが、ここに並ぶ人名を見ていると、過ぎ去った10年間の間に、どれだけの人物が喪われたかを想わずにいられない(五十音順、カッコ内は没年)。
岩橋永遠(1999)、小倉遊亀(2000)、加山又造(2004)、斉藤義重(2001)、浜口陽三(2000)、東山魁夷(1999)、堀内正和(2001)、村井正誠(1999)、若林奮(2003)
これらの多くは、「一般的、かつ他分野とのかかわりで文献に出現頻度の高いものから順に選んでゆく」といった方針に沿って選ばれたのだろう。ただし、その方針とは明らかにズレそうな人名も散見される。例えば斉藤義重は、確かに美術史上では重要人物で、新聞でその死は大きく報じられ、回顧展も開かれたが、実際のところ美術以外の分野の文献でその名前を見ることがそんなにあっただろうか。むしろ、そんなところに美術というジャンルの閉鎖性を思うし、ここにも「こだわり」の反映が見られよう。
そして、過ぎ去った10年の間、もっと多くの人物が喪われたのではないかと思われるが、早く逝った死者たちの中でこの時点で彫刻家の若林奮を収録したことも、校閲者が美術史家として先見の明を賭けた「こだわり」にちがいない。死後、『広辞苑』に名を遺すことにそれほどの栄誉があるのかどうか。だが、死者の名をこのような日本(語)の知的スタンダードの中に組み込むことは、ひとつの追悼にとどまらず、いつか誰かがページを繰り、キーボードを叩く中で、幾度も魂を甦らせることをも意味するのであろう。(足立元)
(つづく)
posted by complex編集部 at 18:17| 書評
2008年12月21日
広辞苑によると〈美術〉は・・・(全3回)
第1回 「美術」、「芸術」とは何か
コラムやスピーチによくある修辞法(レトリック)の一つに、「辞書によると・・・」という文句がある。何となく知っている言葉でも辞書を引くと、ああそうかと膝を打つような、明快な定義を見つけることが、ときどきある。そうやって言葉の意味を掘り下げてから、文章を面白く展開していくわけだ。
一方で、辞書に書かれてあることは、普通に読んでいて決して面白いものではない。例えば「あの人は辞書のような文章を書く人だ」というときは、文章表現力の乏しさを意味するだろう。辞書の文章には、エモーショナルな部分が一切無いからだ。そこにはただ間違いのないはずの、無味乾燥で客観的な事柄の定義だけが無数に書かれている。
とはいえ、短い文章で一つ一つの言葉が何を意味するか定義することは、非常に頭を悩ます仕事だ。誰もが知っているありふれた言葉であればあるほど、その定義は、ときに高度に抽象的な内容になる。それを物事の本質といってもいいだろう。そして、本質を探り出すということは常に新鮮な驚きをともなうものだ。また、どんなに主観や推量を排して客観性を目指したところで、何を入れて何を削るかという選択のところで、かえって編者・執筆者自身の価値観を表明することにもなるだろう。辞書を読むという作業には、そのような、事物の本質にある新鮮な驚きや執筆者達の隠れた価値観を発見する楽しみもある。
2008年1月、日本で最も定評のある辞書の『広辞苑』が、第六版として新しく出版された。『広辞苑』によると〈美術〉はどのように定義されているのだろうか。そこには、いつか文章を書くときにも使いたくなるような、ああそうだったのかという新鮮な驚きがあるのだろうか。そして、『広辞苑』第六版は、その旧版と比較して、どんな変化があったのだろうか。この連載では、『広辞苑』第六版に記載された美術関係の項目をとおして、美術の本質について、そして美術をめぐる現在の状況について、考えてみたい。
* * *
ところで『広辞苑』とは、その名を知らない日本人はいないだろうというほど有名な辞書だが、改めてどんな書物なのか確認しておこう。初版以来変わらないカバーの、荘厳さと上品さを備えた装丁は、画家の安井曾太郎(1988-1955)が手がけたものである。安井曾太郎といえば、確かなデッサン力とねっとりした不透明油彩による鮮やかな色彩の、いわば日本的油絵の大成者として記憶されているだろう。そのため、この『広辞苑』の装丁は意外な傑作と思われるかもしれない。だが、戦中から戦後直後にかけて「国民的画家」の一人として活躍した画家の晩年の仕事が、やがて戦後の「国民的辞書」に成長する辞書を飾ったことは、極めて象徴的である。
『広辞苑』は、1935年の『辞苑』(博文館)を引き継ぎ、国語辞典と百科辞典の二つを両方の性格を兼ねたものとして、1955年に岩波書店から出版された。戦後日本の歴史の中で、オフィスには必ず一冊は購入され、知的労働者の家庭であれば一家に一冊というほど、『広辞苑』が普及し、支持された。それは、おそらくこれが単なる字引ではなく、簡便な百科辞典としての役割を兼ねていたからであろう。つまり、『広辞苑』が売れたのは、その初期は、信頼がおける字引だったからというよりむしろ、高価な場所を取る百科事典を買わなくてもだいたいの調べ物ができるという、いわば「お得感」のようなものが理由ではないだろうか。
そして、初版以来の戦後半世紀にわたる5度の改訂は、『広辞苑』が日本語の辞書の中でも事実上のスタンダードとなっていく過程であると同時に、おそらく日本のアカデミズムの更新もある程度反映していると考えられる。第六版にもなると、『広辞苑』のなかの百科辞典的な部分は、美術関係のところだけでも、相当な項目数になっている。その正確な数は分からないが、実際のところ、『カラー版 日本美術史』や『カラー版 西洋美術史』(ともに美術出版社、2002年)くらいの、ちょっとした美術の教科書をやや上回る程度の情報量があるのは間違いない(詳しくはこの連載の次回に取り上げよう)。つまり『広辞苑』は、単なる日本語辞書というだけでなく、一般教養として充分実用的な美術事典としての機能も持っているのだ。
* * *
『広辞苑』第六版で、「美術」の項目を引いてみよう。そこには、何か本質的な発見があるだろうか。
『広辞苑』第六版(岩波書店、2008年)
びじゅつ 美術 (fine artsの訳語)本来は芸術一般を指すが、現在では絵画・彫刻・書・建築工芸など造形芸術を意味する。アート。クンスト。
確かに、「美術」とは何かという根源的な問いは、何十億人の人々が悩み考えてきた難しい問題にはちがいない。それにしても、この定義は、物事の本質というにはあまりにも素っ気ない。何か文章のネタに『広辞苑』を使おうと思っていた人たちは、早速がっかりするだろう。
しかし、何か言葉の意味や内容を調べるとき、一冊の辞書や辞典を引いただけで、全てが分かるということはない。「美術」の定義にしても同様で、『広辞苑』初版や、他の辞書と比べてみると、「美術」というものについてのある意図が浮かび上がってくる。
『広辞苑』初版(1955年)
びじゅつ 美術 @美を表現する技術、即ち芸術。「-家」A空間並びに視覚の美を表現する芸術、即ち造形芸術。絵画・彫塑・建築・工芸美術など。
『広辞苑』第六版で「美術」は「造形芸術を意味する」とあったのに対して、『広辞苑』初版では、「美術」は「美を表現する技術」=「造形芸術」だといっていた。さらに他の辞書を引くと、『大日本國語辞典』(新装版再版、1953年)『辞海』(第二版、1952年)、『学研国語大辞典』(1985年)、そして、『大辞林』(第三版、2006年)においてすら、驚くべき事に、美術というものは、「美を表現する技術」ということが書いてあるのだ。
今日、というより、20世紀の美学の常識として、美術が美を表現する技術ではないことは自明のことである。『広辞苑』第六版における「美術」の定義のあまりの素っ気なさは、むしろ余計な記述をそぎ落とすことで、「美」という基準を追求することから自由になった今日の「美術」のありかたを反映していると評価できるだろう。
ちなみに、『広辞苑』第六版で「美」という言葉を引いてみると、第一義にひらがなで「うつくしいこと。うつくしさ。」と書いてあり、これはもう陳腐な解説というより、何の解説にもなっていないトートロジー(同語反復)である。それに対して「美術」の項目では、「美」とは何ぞや?という問いを敢えて避けて、無機的に造形芸術と記したのだとも考えられる。
しかし、『広辞苑』第六版の「美術」の定義に全く疑問が付かないわけではない。それは、カッコでくくられた「fine artの訳語」という記述だ。確かに、『大辞林』(第三版、小学館、2006年)を引いてみると、「美術」は、「英語fine artsの訳語。西周「美妙学説」(1872年)にある」と記されている。だが、美術史上のほぼ定説として、「美術」という語が初めて登場したのは、明治6(1873)年のウィーン万国博覧会に明治政府が参加した際、ドイツ語のschöne künsteなどに相当する翻訳語として造語されたときである。『広辞苑』第七版においてこの点が改められることを望む。
* * *
さて、実のところ『広辞苑』第六版における「美術」の定義は、第五版から少しも変わっていない。一方で、「芸術」の定義には第五版からの変化があった。それはわずかな文言の違いであるが、「芸術」の今日的変化というくらいの意味はありそうだ。
『広辞苑』(第六版、岩波書店、2008年)
げいじゅつ 芸術 @[後漢書孝安帝紀]技芸と学術。A(art)一定の材料・技術・身体などを駆使して、鑑賞的価値を創出する人間の活動およびその所産。絵画・彫刻・工芸。建築・詩・音楽・舞踊などの総称。特に絵画・彫刻など視覚にまつわるもののみを指す場合もある。
ここではまず、「芸術」とはそもそも「技芸と学術」の二つを意味していたことを教えてくれる。例えばゴッホに代表されるような近代的な芸術家像の世俗的なイメージを思えば、芸術とは何か奔放な自意識に裏付けられた世界観を示す作品を想像されるかもしれない。しかし、中国語の古典を遡れば、「テクニック」と「アカデミズム」の融合こそが「芸術」の原義だったのだ。それはつまり、「芸術」とは「身体性」と「知性」の全体性であると解釈することもできるだろう。それらを「修練」と「教養」に置き換えても構わないが、「芸術」とはそもそも、決して浮世離れした風変わりな世界観などではなかったのだ。
ところで、『広辞苑』第六版の「芸術」の定義が旧版と変わったのは、「一定の材料・技術・身体などを駆使して、鑑賞的価値を創出する」という部分である。特に、「身体」という記述と、「鑑賞的価値を創出する」の二点について、旧版と比べてみよう。
『広辞苑』(初版、岩波書店、1955年)
げいじゅつ 芸術 @〔後漢書〕技芸と学術。A〔美〕(art)特種の材料・技巧・様式などによる美の創作・表現。造形芸術(彫刻・絵画・建築など)・表情芸術(舞踊・演劇など)・音響芸術(音楽)・言語芸術(詩・小説・戯曲など)に分けることもある。
『広辞苑』(第五版、岩波書店、1998年)
@[後漢書孝安帝紀]技芸と学術。A(art)一定の材料・技術・様式を駆使して、美的価値を創造・表現しようとする人間の活動およびその所産。造形芸術(彫刻・絵画・建築など)・表情芸術(舞踊・演劇など)・音響芸術(音楽)・言語芸術(詩・小説・戯曲など)、また時間芸術と空間芸術など、視点に応じて種々に分類される。
『広辞苑』初版と第五版には、「芸術」の一種として「表情芸術」という聞き慣れない言葉が出てくる。控えめにいって、舞踊や演劇を指して「表情芸術」と呼ぶのは、かなり特種なケースではないだろうか。この点は『広辞苑』の定義が長らく間違っていたといっても差し支えない。これに対して、『広辞苑』第六版では、「表情芸術」などを削り、その代わりに「一定の材料・技術・身体などを駆使して」と書くことで、より言葉が実際に使われているケースに近づけたのだと思われる。さらには、「材料・技術」に並んで、少し別の次元の「身体」という語を挙げたところも興味深い。ここには、近年のパフォーマンス・アートの興隆とその関心が反映されているのかもしれない。
そして、『広辞苑』第五版では「美的価値を創造・表現」とあるのに対して、『広辞苑』第六版では「鑑賞的価値を創出」とある。「美術」がもはや「美」とは必ずしも関係がないことは先に触れたが、美術を包括する概念の「芸術」もまた「美的価値」とは必ずしも関係がないだろう。それに置き換わって「鑑賞的価値」という言葉が用いられたのは、確かに納得がいく。
ただし、『広辞苑』第六版が「芸術」には「鑑賞的価値」があると書いたのは、単に無難にまとめたのではなく、非常にシニカルな芸術観を反映した可能性がある。それは、批評家の宮川淳がかつて「おそらく、芸術が実在するのはただ、神によってであれ、美によってであれ、あるいは他のなにかによってであれ、かくされ、いつわられて——いいかえれば疎外されてのみなのだ」(「反芸術以後」)と書いたのを思い起こさせる。つまり、うがった見方をすれば、宗教的対象として崇めたり、市場で高価な値が付いたり、地域や国家の誇りとなったり、そういった芸術の価値はあくまで偽りのもので、芸術にはただ見て味わうことの価値しかないといっているようなものなのだ。
* * *
『広辞苑』第六版は、こうした抑制された記述のなかに、ラジカルな意志を込めているように思えてならない。次回は、『広辞苑』第六版が、美術辞書としての機能をどれだけ充実させたかについて、見ていこう。(足立元)
